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东方外来韦编/2019 Spring!/幻想之源①

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  • 该内容于杂志中页数:014-015
  • 翻译:院长each

幻想之源①

Fragment of Phantasy


東方Projectにちりばめられた、様々な幻想の欠片を覗き見るコラム。
今回のコラムも、それぞれ関連性の深いものになっている。
まずは「幻想入り」した歴史の偉人について。
文/塩田信之
本栏目将窥视星罗棋布于东方project里的,各式各样的幻想碎片。
本期的栏目也是一个又一个与之关系密切的话题。
首先是关于「进入幻想」了的历史上的伟人。
文/盐田信之
古代日本の英雄・聖徳太子
古代日本的英雄,圣德太子
 聖徳太子といえば、昔は「日本人なら誰でも知っている歴史上の人物」などと表現されることが多かったものですが、最近はそんな地位も揺らいできているようです。しかしそれも無理からぬこと。1958年から80年代の中ごろまで日本の最高額紙幣である1万円札に聖徳太子(とされた)肖像がプリントされ、値段やお札を数える時にも「聖徳太子1枚」などといっていたものが、1984年11月から福沢諭吉の新札に代わり、数えるときも「諭吉1枚」に変わってしまったのですから、すっかり「過去の人」になってしまったわけです。もちろん、聖徳太子が活躍したとされる時代は6世紀末から7世紀の四半世紀にも満たないころまで。1500年以上も昔の話ですから、過去も過去。昔話などの「むかしむかし」や「大昔」という表現でも全然足りない「古代」のことです。現存する日本最古の正史とされる『日本書紀』が編纂されるおよそ100年ほど前にはすでに亡くなっていたとされる人物です。
  说起圣德太子,过去他常被形容为「日本人都知道的历史人物」,这种立场最近似乎有所动摇。但这并非无稽之谈。从1958年到1980年代中期日本最高面额的一万日元钞票上印有圣德太子的肖像,在计算价格和钞票张数也会说「一张圣德太子」这样的话,但自1984年11月起新钞改用福泽谕吉,计数时也改说「一张谕吉」了,他就此彻底成了「过去的人」。当然,据说圣德太子从6世纪末到7世纪活跃了还不到四分之一个世纪。都是1500多年前的事了,过去就过去了。这是故事中的「很久很久以前」和「从前」都完全不足以表达的「古代」。据说他在日本现存最古老的官方正史《日本书纪》被编纂的约100年前就已经去世了。
 聖徳太子の伝説の多くは、『日本書紀』に書かれています。太子の母親が出産予定日に宮中を見回っていて、厩の戸に当たった拍子に産まれたことから「厩戸皇子」と名付けられたことや、産まれてすぐに言葉を話した天才だということまで国の「正史」に記されているのですから驚きです。というのも、叔母にあたる推古天皇(日本でもっとも古い女性天皇)が即位して4か月ほどで、二十歳そこそこの太子に国政すべてをゆだねたと記されていて、推古天皇の記録はその多くが聖徳太子の記録ともいえます。成人して政治に参加するようになると、一度に十人から話を聞いてすべて理解したとか、仏教や儒教を中国から来たえらい人に学んだとあって、その優れた能力を讃えるため「上宮厩戸豊聡耳太子(かみつみやの うまやとの とよとみみの ひつぎのみこ)」と呼ばれたと賛辞が続きます。
  许多圣德太子传说,都写在《日本书纪》中。令人惊异的是诸如之所以被命名为「厩户太子」是因为太子母亲预产期时在宫殿里巡视,走到马厩时生产了,他是刚出生就会说话的天才之类的东西被记录在了国家的「正史」里。据记载,其叔母推古天皇(日本最早的女天皇)在即位后的整整四个月里,曾将一切国政托付给这位年仅20岁的太子,推古天皇的记录大部分可以说是圣德太子的记录了。成人后便参政,同时听十个人说话还都能理解,从来自中国的伟人那里学习了佛教和儒教,为了赞誉他这般优秀的能力其美称「上宫厩户丰聪耳太子」被延续了下去。
 四天王寺をはじめとする寺院の建立、今の朝鮮半島にあった国・新羅への出兵、冠位十二階や憲法十七条の制定、そして小野妹子を含む遣隋使の派遣と聖徳太子の目覚ましい活躍が綴られていくことになるわけですが、そのあたりは学校の歴史の授業でも習ったという方も多いと思います。飛鳥時代と呼ばれる古代日本(まだ日本ではなく「倭」と呼ばれていましたが)が大国・中国と張り合える国家となるために必要な土台造りの多くが、聖徳太子の業績であったと「正史」に記されているわけです。まさに、日本という国の成り立ちに欠かせない最大級の功労者ですから、日本で一番高額な紙幣の「顔」になるのも納得できるというものです。
  虽然圣德太子有过从四天王寺开始建立寺庙、出兵到新罗这个如今成了朝鲜半岛的国家、制定十二阶冠位和十七条宪法,以及派遣包括小野妹子的遣隋使等等这么多耀眼的快举,但我想有不少在学校的历史课上就教过了。在所谓飞鸟时代的古代日本(虽然它仍称为「倭」而非日本)为了成为一个可以与大国:中国抗衡的国家,所需要的大部分基础是作为圣德太子的业绩被记载在「正史」中的。既然,他是日本建国不可或缺的最伟大的功臣,那么成为日本最高额纸币的「颜面」的事各位也能认可吧。
本当は聖徳太子なんていなかった!?
圣德太子其实不存在!?
 そんな聖徳太子の知名度が下がっているとは、どういうことなんでしょう? もちろん、お札が変わってすでに25年近く経過しているため、単純に身近に感じる機会が大幅に減っているのは確かです。が、それだけではありません。今や聖徳太子の実在すら疑われている状況で、近年は特に「不在説」の勢いが増しています。一昨年文部科学省が公表した最新の中学日本史教科書では「聖徳太子」とこれまで書かれていた部分が、すべて「厩戸王(聖徳太子)」に変わることになりました。これは近年の考古学的成果によって、それまで聖徳太子の業績と考えられてきたことの多くが太子ひとりだけでなく、天皇や当時有力な豪族だった蘇我氏らによる共同作業で整備されたことがわかってきたためで、『日本書紀』にある聖徳太子の記録についても大幅な脚色が加えられたことは間違いないと考えられるようになったからです。「厩戸王」と呼ばれた人物は実際にいて、太子が行ったとされる業績の一部に関わっていたと思われますが、後の時代に誇張されて「聖徳太子」のイメージが作られていった、というのが現在の教科書が教える「定説」となります。
  所谓圣德太子的知名度在下降,这又是什么意思?当然,更改钞票至今已经快25年了,所以在身边轻易感知到他的机会肯定是大幅减少了。但是,事情并非只是如此。如今连圣德太子的实存都被怀疑着,而且近年来「不存在论」的势头在增大。在两年前文部科学省发布的最新版中学日本史教科书中,之前写成「圣德太子」的部分全给改成了「厩户王(圣德太子)」。基于近年的考古学成果,至今被当成是圣德太子业绩的很多事被发现不是只有太子,而是由他和天皇及当时有力的豪族苏我氏共同准备和实现的,由此而来的推论就是《日本书纪》中圣德太子的记录里他这个角色无疑是被大幅加强了。名叫「厩户王」的人物确实存在,和一部分所谓太子的业绩有关,但在之后的时代里被夸大作成了「圣德太子」这个形象,这便是现在的教科书所教的「定论」。
 とはいえ、「聖徳太子不在説」という考え方は別段新しいものではありません。だいたい国の「正史」とされる歴史書に、産まれてすぐ話すことができたとか常人にはできない十人の話を聞き分けたみたいなエピソードが含まれていることも作為的に見えます。遣隋使については中国側の歴史書(『隋書』等)にも記録が残されているのですが、日本側の記録とは合致しない記述ばかりで、聖徳太子の名は出てきません。もともと『日本書紀』には『古事記』との不整合などからも当時の政体の意向による意図的な歴史改変が認められるとして、古くから疑問が持たれていました。
  不过,「圣德太子不存在论」这种想法没多新鲜。哪怕是基本上作为国家「正史」的史书,其中出生后就能说话以及常人做不到的听懂十个人说话这样的传说也被认为是编出来的。至于遣隋使方面虽然中国方面的史书(《隋书》等)有留下相关记载,但不少记述与日本方面的记录不符,其中也没有出现圣德太子这个名字。《日本书纪》因与《古事记》不一致等缘故早就被怀疑是基于当时政体的意向,被有意认可了历史的改写。
 そんな経緯があって、聖徳太子が実在したか否か」や、その業績については長い間論争の的でした。考古学的な新たな発見がある度にそうした論争は再燃されるのですが、現在に至っても結論は出ていません。
  在这样的背景下,圣德太子究竟是否实在论」,以及其业绩究竟如何一直引发着争论。每当考古学有新的发现就会重新点燃这种争论,直到现在也没有得出结论。
神格化されてゆく聖徳太子
被神化的圣德太子
 『日本書紀』における記述からは、死後100年が経過して聖徳太子が神格化(仏教的に表現するなら「聖(ひじり)化」)されている状況が窺えます。「憲法十七条」で「篤く三宝を敬え」と「仏・法・僧」を挙げ、四天王寺や斑鳩寺等を建立して仏教の流布に貢献した「日本仏教の父」聖徳太子ですから、そんな扱いもわからなくはないのですが、そうした風潮はその後エスカレートしていき、「聖徳太子信仰」と呼ばれるようになります。787年の『日本靈異記』をはじめとする「仏教説話集」で度々取り上げられ、数々の奇跡によって彩られていき、しまいには「6世紀中国の高名な僧・慧思の生まれ変わり」だとか、「久世観世音大菩薩の化身」とまでいわれるようになりました。他にも、王子という立場も共通する「仏陀」ことゴータマ・シッダールタの生まれ変わりにされたり、「厩で産まれた」ことからイエス・キリストと重ねる見方もありますが、その辺りまでくると「聖徳太子はユダヤ教徒の失われた10支族の末裔だった」みたいなトンデモ系史観に近づいていくことになるので注意が必要です。
  从《日本书纪》的记述多少可以看出,圣德太子在他死后100年间被神化(在佛教中的体现是「圣化」)了。在《十七条宪法》里就有「笃敬三宝」与「佛、法、僧」,既然是建立了四天王寺和斑鸠寺等寺庙并为佛教的传播作出过贡献的「日本佛教之父」圣德太子,这种待遇也不是不能理解,但这种风潮更升级了,变成了所谓的「圣德太子信仰」。他在从787年《日本灵异记》开始的「佛教说话集」中数次出现,被数种奇迹上了色,被称为是「6世纪时中国高僧:慧思的转世」,还被称为「久世观世音大菩萨的化身」了。此外值得注意的还有,他是同有王子地位的「佛陀」乔达摩·悉达多的转世,因为「出生在马厩」而被与耶稣·基督重叠,甚至是「圣德太子是失落了的犹太教徒十支派的后裔」这样近乎异见的观点。
 ともあれ、聖徳太子については確たる情報がほとんど存在しないため、憶測や想像によってさまざまな聖徳太子像が作られました。もちろん、「不在説」の場合も『日本書紀』などを深読みしていった結果、本当は蘇我馬子が天皇だったが、その歴史を消すために太子の存在が作られ馬子の業績を太子のものとして正史に記録したといった見方もあったりして色々な憶測が渦巻いているという点は変わりません。それだけ想像力を掻き立てる魅力的な存在であることは間違いないわけです。
  无论如何,由于几乎没有关于圣德太子的确实的信息,因此各个圣德太子像都是基于臆测和想象来制作的。当然,有人以「不存在论」为前提深入阅读了《日本书纪》等书后,认为其实苏我马子才是天皇,但为了消除历史而创作了太子来接手马子的业绩结果被当作正史记录下来等等各种臆测交织的情况总是不会变的。毫无疑问这是能够刺激想象力的和有魅力的。
幻想郷へとやってきた聖徳太子
到了幻想乡的圣德太子
 それだけ様々な説が考えられてきた聖徳太子ですから、現世で存在を否定されることが増えていき、幻想郷で「豊聡耳神子」として復活したという設定も、見方によっては奇抜というほどでもないかもしれません。実際、仏教は尊重していても神道やその他の宗教を否定していたわけではなく、「太子は本当に仏教徒だったのか」といった論争もあります。『日本書紀』にも、太子は「慧慈」という高句麗の僧に仏教を学んだと書かれていますが、同時に「覚哿博士」から仏教以外の教典も学んだとあります。やはり『日本書紀』にも書かれている太子のエピソードに、道端に倒れている人物を見かけて食事と衣服を与えたという出来事がありますが、大雑把にまとめると倒れていた人物は実は仙人(真人)で太子を聖人だと称賛してくれるというお話しです。道教の考え方が色濃く表れたエピソードで、太子が道教も学んでいたことを示唆しているとも考えられます。
  被这些各种各样的理论考察过的圣德太子,其存在于现世越来越被否定,而在幻想乡中作为「丰聪耳神子」复活的设定,也不算有多奇特的了。实际上,由于尊重佛教但不否定神道教等其他宗教,关于「太子是否真的是佛教徒」也存在争议。 《日本书纪》记载,太子向高丽僧人「慧慈」学习佛教,但同时也向「觉哿博士」学习了佛教之外的教典。在《日本书纪》记载的太子传说中,也有一个是写他看到一个人倒在路边便给了他食物和衣服,但这位倒下的简单地说实际上是仙人(真人)的人称赞太子为圣人。这是个道教思想浓郁的传说,有人认为这暗示着太子还学习道教。
 豊聡耳神子とともにいる物部布都と蘇我屠自古も、幻想郷に復活した太子と同時代の人間ということになるわけですが、神子と太子ほどにはモデルとなった人物と直接的繋がりはなさそうです。聖徳太子がいたころの日本は中国や朝鮮半島から伝わってきた仏教が勢力を増していましたが、日本に古くからあった神道と勢力争いをしていたころでもあります。豪族たちもどちらを支持するかで派閥を作り対立していました。仏教派を代表していたのが蘇我氏で、神道派の物部氏とは激しく対立していました。そんな対立構造も布都と屠自古の関係に影響していたことは間違いありません。太子の活躍した時代はすでに蘇我氏と仏教が優位に立っていたようですが、用明天皇没後の継承争いに乗じた蘇我派と物部派の抗争が起こり、蘇我馬子が物部守屋を倒しました。その戦いに、まだ13歳ほどだったと考えられる太子も参加していました。特に戦果を挙げたとはされていませんが、自身の手で四天王の木像を作り、戦勝祈願を行ったとあります。それが後の四天王寺建立へと繋がるわけで、太子の祈りが戦いを勝利に導いたともとれる流れですから物部氏からは仇敵とみられる立場になります。
  与丰聪耳神子一起的物部布都和苏我屠自古,似乎也是与在幻想乡复活的太子同时代的人类,但不像是神子和太子这样和作为原型的人物之间有直接的联系。圣德太子还在时的日本从中国和朝鲜半岛传入的佛教扩大了势力,但也与在日本存在已久的神道争夺着势力。豪族们也以支持哪边结成派系对立着。代表佛教派的是苏我氏,与之激烈对立的是神道派的物部氏。毫无疑问这样一种对立结构也影响着布都和屠自古间的关系。在太子活跃的时代苏我氏和佛教似乎已经占了优势,但以用明天皇死后的继承之争为契机苏我氏和物部氏间掀起了抗争,结果苏我马子击败了物部守屋。这场战争,被认为才约13岁的太子也参加了。列不出他有什么特别的战果,但他亲手制作了四天王的木像,进行过战胜祈愿。这可以和后来四天王寺的建造联系起来,说是太子的祈祷将战争导向了胜利因而他在立场上会被物部氏视为敌人。
 布都といえば、タケミカヅチ神が持つ剣「フツノミタマ」あるいはフツヌシ神を連想する方も多いでしょう。両者は同一とされることもありますが、物部の氏神社とされる石上神宮は剣をご神体とし、そこに宿る神霊「布都御霊(フツノミタマ)大神」を祭神としています。またタケミカヅチといえば「国譲り」神話で抵抗したタケミナカタと戦った神でもあります。敗北したタケミナカタが諏訪の地へ逃れ、そこで古くから信仰されてきたミシャグジ神と戦った後諏訪大社の祭神となったわけです。諏訪には物部の子孫がいたとされ、守屋神社があったり諏訪大社の神長官の家系が「守矢」の姓を名乗っていたことも興味深い符合です。
  说到布都,很多人会联想到建御雷神持有的「布都御魂」剑或经津主神吧。这两者可能是一体的,但被称为物部氏族神社的石上神宫把剑作为御神体,把寄宿其中神灵「布都御灵大神」作为祭神。然后说到建御雷那是在「让国」神话里和抵抗的建御名方战斗的神。败北的建御名方逃往诹访地区,据说在那里与自古被信仰的御社宫司神战斗结果成了诹访大社的祭神。据说在诹访有物部的子孙,带有守屋神社的诹访大社的神长官家系有姓「守矢」这一点也是有趣的吻合。
 『日本書紀』には名が記されていませんが、物部守屋には妹がいて、一説にはその名を「布都」としています。守屋の妹は蘇我馬子の妻となり、息子蝦夷(エミシ)や娘刀自古を産んだと『日本書紀』にありますから、両家の対立で間に立つつらい立場だったと思われますが、対立を激化させた恐ろしい女性だったという見方もあります。ところで、屠自古の名前の由来となった刀自古は、聖徳太子の妻として有名です。太子と刀自古の間には息子山背が生まれましたが、太子の死後蝦夷の子入鹿と対立し、自殺に追い込まれ聖徳太子の家系も途絶えたとされています。なかなか複雑な人間模様があったことになりますが、そもそも太子が本当にいなかったのならどんな人間関係だったのか、関係する他の人々にも実際の歴史とは変えられていたり、太子とともに創られた架空の人物が含まれていたりするのか気になります。
  虽然是《日本书纪》没提到的名字,但物部守屋有妹妹,一说其名为「布都」。守屋的妹妹成了苏我马子的妻子,生下了《日本书纪》里有的儿子虾夷和女儿刀自古,因此被认为是夹在了对立中间的立场,但也有观点认为她是激化对立的可怕女性。顺便一提,屠自古这个名字来自刀自古,后者作为圣德太子妻子的名字而闻名。太子和刀自古之间生了儿子山背,但据说在太子死后与虾夷的儿子入鹿对立,被逼自杀甚至导致圣德太子家系断绝。面对这样相当复杂的人际关系网,我在意的是如果太子根本不存在又是什么样的人际关系呢,其他相关人士是否也从实际的历史中和太子一起被改写,创作成了架空的人物之一呢。